日常

いつか捲ってやるさ

善悪の区別

何が善で何が悪なのか。パッと見誰にでもわかることだが、状況によってそれらの基準が変わることがある。

例えば、飢えに飢えて餓死寸前のとき万引きや畑の野菜を盗むこと。果たしてそれは悪なのだろうか?昔は当たり前のようにそういったことが起こっていた。誰かから何かを奪ったりするよりはマシだろう。今では炊き出しやフードバンクなどの貧困層にとってありがたい行いがあるが、とくに戦時中なんて何でもありだったのでは、と思う。悪いことをして得た金で多額の寄付をする。善い行動を取っている根源は悪の存在が暗躍している、今はそんな世の中だ。だからこそしっかりと善悪を理解していないとね。その人にとってどう対処すればいいのか、事件や自然災害が起きたときどういった行動を取るか。いつ自分がそういった状況に遭遇するのかわからない。せめて心構えは持っておくべきだと感じる。踏み込んでいいライン引きも重要だ。自分にとっては善き行いが他人からしては悪だと言われないために信念を持つことも肝心だ。基本的に善いことをしているとき本人は善をそこまで意識していないものだ。むしろそれが当たり前だと慈愛の念すら感じることもある。悪いことは意識しまくるのが人間だ。罪の意識というやつである。罪悪感ともいえる。

私は人は生まれたときは誰もが性善説派なのだが、悪魔の子ダミアンのようにごくまれに悪として生まれるケースも無いとは言い切れない。多くの悪は幼少期から成長期にかけて芽生えてくるもので、その芽をいかに刈り取るかが大人の役割の一つだ。環境も大事だ。その過程でやっていいこといけないことをしっかりと教え伝える、それが教育なんだ。その辺今の時代の子供たちはどうなのだろう?私たちの世代までは体罰や親から殴られるなんてザラだったが今は悪いことをしたら違った𠮟り方をしているのだろうか?いや、その前に子供たちが察してそうならないように成長しているのだろう。時代はかわったんだなぁ。まあ中高年の犯罪のほうが目立っているのも確かだ。人のことを考えられない人間はエゴに染まり、悪いことを平然とする。自暴自棄になっている。おとなしく過ごしていれば平和に暮らせるのにね。そんな人間にならないためにも極力気持ちのいい善行をし、徳を積んで生きていきたい。「明日は我が身」この言葉を胸に刻み日々精進あるのみだ。