日常

いつか捲ってやるさ

カルマについて考える

「カルマ=業」あまりにも暇なので考えてみる。サンスクリット語ということはヒンドゥー教ということはインドか。そこからかよ!と思うが恥ずかしながら知ってるようで全然知らない。日本でいうところの「因果応報」が当てはまると思うのだけど、いいことをすればいいことが起きて悪いことをすれば悪いことが起こる。その作用が前世やら先祖やら様々な事象に起きてカルマによって人は様々な経験や体験をするということか。だとすればいいことをせねば。

だが、前世がよほどの悪だとして現世でいくらいいことをしてもうまくいかない人は多い。そもそも前世があるのかわからないけど私は信じたい。よく「呪い」という言葉を聞くがこれもカルマの一種だと思う。祟られる、バチが当たる、天罰が下るといった行動は極力控えたいところだ。今現在私が置かれている立場はそれこそカルマによっての結果だと思う。まあ幸せだが傍からしたら不幸そのものだろうな。楽観主義でよかった(つまりバカということ)。

何事においても心がベースと思う私はカルマについてよく理解せねばならない。カルマを理解していないとなにも悪いことをしていないのに不幸な出来事が起きてしまった人々が救われないからだ。「原因」を知ってないと対策ができないように、不慮の事件や事故に巻き込まれた方たちがなんでそんな目に会ってしまったのかただ運が悪かったじゃ済まされないケースも多々ある。そこでカルマによって運命が左右されていたと思わなければやってらんないでしょ。つまりいい人すぎてもダメで、悪人すぎてもダメということだ。何事もバランスが大事なのである。陰陽ほどよい塩梅で混ざり合ってこそが生き抜くためのカギかと。深く深く探求していけばカルマは魂や死後の世界にも繋がってくる。「勘」も大事で、平和ボケしていると食われる。ストリートで育った私はその点を活かして動いているのだが、カルマだのあーだこーだ語る前にまずは勘を磨く。それだわ。そこからやっていいこといけないことをよく考えて行動すればまず何か危険なことに巻き込まれることはないと思う。

「あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある」wikiより